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笠森稲荷神社

笠森稲荷神社は八幡宮が建てられる前から八幡山の山頂に祀られていました。神さまは宇迦之御魂命で、五穀豊穣・商売繁盛、さらにできものの守り神として、歴代藩主から一般庶民まで広く信仰されていました。
一説にはこの付近にすんでいた彌吾郎長者の守り神であったと伝えられていますが、本当かどうかはわかりません。また、全国にあるいずれの笠森稲荷の分社であるかも不明です。現在の地(八幡宮境内)にうつったのは、昭和32年(1957)で、その3年後の昭和35年(1960)9月、笠森稲荷神社崇敬講の人々により現在の社殿が建てられました。
できものの守り神としては、徳川家康が瘡病(そうびょう:できもの)で苦しんでいるとき、江戸・谷中の感応寺境内にある笠森稲荷にお祈りしたところ、全快したという伝説が残っています。江戸の笠森稲荷と同じように、昔からできものなどをいやしてくださる神さまとして祈願する風習があったようです。

 

神明社

祀られている神さまは天照大神(あまてらすおおみかみ)です。延暦の昔、坂上田村麻呂が盛岡の仁王に建てたのがはじまりです。元禄時代には煙草丁(現在の明神町)に、その後八幡山にと移されました。明治17年(1884)盛岡の大火により焼失しましたが、昭和43年(1968)明治維新100年を記念して現在の地に祀られました。自光坊の先祖が伊勢にご神体をうけて、盛岡の仁王に祀ったという話しが伝えられていたり、神さまを移すときには5尺(約150)くらいの柱を霊代にして、自光坊自ら背負っていったとの言い伝えも残されていますが、本当のことはよく分かりません。藩政のころ神明社所属のことで、自光坊と鈴木神職との間で争いが生じました。自光坊が訴訟に勝ち、それから自光坊の力によって神明社が発展してきたそうです。

梅 宮

祀られている神さまは酒解神(さかとけのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)、大若子神(おおわくごのかみ)、小若子神(こわくごのかみ)です。寛保元年(1741)、南部23代利視公が人々の子孫繁栄を願って京都梅宮大社の御分霊を祭りました。安産、婦人、醸造の守護神として歴代の藩主から庶民にまで深く信仰を集めてきました。旧藩時代、笠森稲荷神社の近くにありましたが、明治時代の盛岡の大火によって焼失してしまいました。それから、その神さまは八幡宮本殿に安置されていました。信仰が厚かった人たちが本殿の建築費を寄進し、大正3年、社殿を現在の地に再建することができました。

十二支神社

十二支の生まれ年ごとにひとつずつ守り神があるとする、土着的な民間信仰が元になっています。子年生まれは出雲神社、寅年生まれは八坂神社、亥年生まれは鳩森八幡神社と、十二支の動物が仕える神を祭る神社が、12社並んでいます。1年に1回、自分の生まれ年の神を拝むとよい御加護があると言われています。

高倍神社

高倍(たかべ)神社に祀られているのは、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)と四条中納言藤原政朝卿(しじょうちゅうなごんふじわらのまさともきょう)です。この神さまは、醤油や味噌などの調味料や料理、飲食店の守り神として知られています。調理技術によいということから、女性の守り神であり、調理を商売にしている人々の守り神として敬われています。この神さまが祭られているのは関東以北ではこの神社だけです。たかべの名前は千葉県安房郡千倉町の高家(たかべ)神社に祭られている高倍神(たかべのかみ)磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)から付けられたことが伝えられています。

盛岡天神社

祀られている神さまは学問の神さまである菅原道真公です。八幡宮が造営される以前からこの地に祭られていましたが、寛文年間藩の命令によって花垣(現在の天神山)へ移されました。毎年、受験シーズンには、合格祈願の参拝者でたいへん賑わっています。昭和60年(1985)社殿を建立し、お祭りしました。

健康神社

肺神、肝神、腎神、心神、脾神といった五臓の神のほか、癌神、中風神、健康神、生命神、薬神など、健康にまつわる神々が祀られています。足腰の健康を願って、わらじを奉納していく参拝者もいます。

阿国稲荷神社

芸能上達の神様をお祀りしています。

縁結美神社

男女の縁、人と人の縁を結ぶ神社として良縁を願う人達が多く訪れます。
赤い結び紐を境内に結び、良縁成就、恋愛成就を願います。